イアン・マキューアン『愛の続き』
愛の続き (新潮文庫)愛の続き (新潮文庫)
(2005/09)
イアン マキューアン

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科学ジャーナリストのジョーは気球の事故に遭遇し、その現場で奇妙な青年パリーに出会う。
事件後、パリーはジョーに「愛している」と告げ、執拗に付き纏うようになる。
パリーの異常な愛、主人公ジョーが戸惑い、精神的に苦しむ様を描き出す。

イアン・マキューアンの描写が緻密で執拗で、みっちりしていて、ああ小説読んだなあ、という感じ。
確かな技術と思考で骨太に組まれた小説世界に、どっぷり漬かってしまう。
しつこい描写を追って、じりじりと読み進んでいく楽しみがある。
やはり現代においても小説という体裁を取るからには、しっかりと書き込んで読ませて欲しい。
台詞ばっかりとか、多様し過ぎの口語体とか、既に分かっていることばかり書き連ねるとか、
どこかで聞いた風のセンテンスは、読んでいて白けることもある。
物語をこの手で紡ぎだす、というきちっとした意思と技術で創り出されて小説は、読むのが楽しいものだ。
例えばジョン・アーヴィングも骨太な伝統的な小説という手法でしっかり読ませるタイプ。
どの作品も、力強く物語へ引っ張られ、読ませられ、唸らせられる。大好きだ。
比べると、アーヴィングの方が緩急ついているというか、
しっかり書くところは粘り強く書き、省略するところは省略する。
マキューアンは、なにもそこまで…というくらい、素材を隙無く書いていく。
点描で描かれた絵画を離れて見ると、沢山の色が溶け合って「かたち」として見え、
尚且つ細部を思い出すことで幸福感を味わえるような、そういう手法であると思う。

それで、主人公のジョーの戸惑い、苦しみをみっちりと読まされた読者に
最終的に見えてくるのは、新しい角度からの愛の本質についての気付きであり、
正常と異常のボーダーの曖昧さ、不可解さである。
パリーの異常行動は、曇りなき誠実な「愛」によるものである。
「愛」が精神病と近いところにある、という遣り切れなさを感じる。

ちなみに、本書はマキューアンが英国ブッカー賞を『アムステルダム』で受賞する前作。
この『愛の続き』もブッカー賞にノミネートされていたそうである。
「Jの悲劇」の邦題で映画化されている。
ジョー役にダニエル・クレイグ(007シリーズ、初の金髪のボンドですね)、
青年パリー役にリース・エヴァンズ(似合いそう!)。
『贖罪』も「つぐない」の邦題で映画化されており、現在日本でも公開中。
2008-05-30 08:08 | | Comment(0) | Trackback(0)
「英国美術の現在史:ターナー賞の歩み展」@森美術館
「英国美術の現在史:ターナー賞の歩み展」
森美術館にて 7月13日(日)まで 

1984年にロンドンのテイト・ギャラリーで始まったターナー賞。
今日の現代美術の分野で最も重要な賞のひとつと言える。
50歳未満の英国人または英国で活動するアーティストを対象とし、
毎年4人の候補者の中から1人が選ばれる。
本展は、20年以上に渡るターナー賞の受賞作品を紹介する。
受賞者は皆、今や国際的な活躍を遂げており、この権威ある賞が、
その時々で最も斬新なアートに与えられてきたことが良く分かる。


会場に入ってすぐ、まずターナーの風景画。
それから1980年代の受賞作品の部屋が開けている。
とりあえず1980年代はエネルギーが真っ直ぐにぶつけられている感じ。
捻じれたり、シニカルになったり、視点が分化したりしていない。
ギルバート&ジョージの「デス・アフター・ライフ」、
巨大なパネル作品。若い不満と、もっと上へと躍進せんとする力が、ばちーんと出ている。

1990年代、ヴィデオ・アートも登場。
モノトーンが多く少し暗い印象もある。
ジリアン・ウェアリングの「60分間の沈黙」は、
警察官を並ばせてただじっとさせておいて、
時間の経過とともに生じてくる被写体の戸惑いを見せる。
「サーシャとママ」、母娘の掴み合いの喧嘩を逆回しで再生することで、
突き飛ばすシーンが抱き締めるシーンになる。
つくりは単純なのだけれど、見ていて面白い、実験的で意欲的な作品。

そしてなんと言ってもダミアン・ハースト。「母と子、分断されて」。
それぞれに、左右に綺麗に切断された牛の親子をホルマリン漬けにした作品。
分断されたお母さん牛の間を歩くのはなかなかの体験。
この牛、歩いていた時があったのね。本当に母子の牛なのかしら。
こんなに肉体がきちんと残っているけれど、これはもはや牛ではないのだわ。
こんなにも「死体」を、「死」を、白日の下でまじまじと見つめていいものだろうか。
倫理的に、悪いような気がする。覗き見をしているような。
だとか何だとか色々考えて、まさに、「メメントモリ(死を想え)」ですねえ。
そしてこの、綺麗に分断したり、保存したりする技術にも、同時に驚嘆します。
しかしこのホルマリン液も定期的に交換したり、メンテナンスが大変らしいですね。

2000年以降はちょっと軽くなる感じ。
ヴォルフガング・ティルマンスなんか本当に軽くて綺麗で。
マーティン・グリード、展示室の電気が5秒ごとに点いたり、消えたり。
これはアートなのか、何なのか。
個人的にはこういう問いかけ系はズルイと思うのだが、
ここまで色々と各時代の前衛を見てくると、ありかもね、という気にもなる。
グレイソン・ペリーの壺、これは本当に素晴らしい。
技術も、コンセプトも、そしてご本人(女装)も。
あと、マーク・ウォリンジャーのヴィデオ作品「スリーパー」、
熊の着ぐるみを着たアーティスト本人が夜のギャラリーでうろうろするだけなのだが、
日常をうまく乱して、切り開いている。
あまりにファニーで目が話せず、延々と見てしまった。

面白いものをたくさん見て満足。揺さぶられた。
ひとりで行かなかったのも正解。
ついつい感想を述べたくなる、見終わってから一通りもう一回話したくなる
そういう楽しい展覧会でした。


屋上スカイデッキの公開が先月から始まったそうで
帰りに昇ってみました。
鉄骨とかダクトとか、何に使うのかクレーンみたいなものとか、
良く分からないけど、いかついビルの骨組みが見えるところを登ってゆくのが楽しい。
平日なので空いていて、お天気も良く眺めも良かったのですが
手荷物禁止だったのでカメラも預けてしまい、あらら、という感じ。
でも眼で見たからいいもんね。
2008-05-29 08:33 | 展覧会 | Comment(2) | Trackback(0)
浅野いにお『おやすみプンプン』
おやすみプンプン 1 (1) (ヤングサンデーコミックス)おやすみプンプン 1 (1) (ヤングサンデーコミックス)
(2007/08/03)
浅野 いにお

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おやすみプンプン 2 (2) (ヤングサンデーコミックス)おやすみプンプン 2 (2) (ヤングサンデーコミックス)
(2007/12)
浅野 いにお

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衝撃的な主人公(とその家族)のキャラデザインもさることながら、
なにこの無常観。と読み終わってしばし呆然としてしまう。
不安定がバランスを取って、、感覚が異様にリアルになったり、
遠のいて違うものが見えたりする。

徹底的な絶望と孤独感。
地獄!!と言い切りながら、生きてゆかねばならないのだよね。
神様ってそんなもん、親だって人間
(とは言えプンプンパパとプンプンママは果たして「人間」なのか…違うのか…)、
取り返しのつくことなんか、ほんとに稀にしか無い。
それでも絶望とともに生きて、プンプンの人生は、絶望がきらきらしている。
2008-05-27 08:22 | | Comment(0) | Trackback(0)
「サスキア・オルドウォーバース展」@森美術館ギャラリー2
サスキア・オルドウォーバース展
森美術館ギャラリー2にて
7月13日(日)まで

森美術館が、これから活躍する若手アーティストを応援するプロジェクト、
MAMプロジェクツの展覧会。

今回ピックアップされたのは、サスキア・オルドウォーバース(1971〜)。
ロンドンを拠点に活躍するオランダ人作家。
手作りの精巧なミニチュアの背景とモノローグによる語りを用いた映像作品。
今回初めて作品を見た。
CGも使用しているのかと思ったら、CGは使わず、ミニチュアセットを組み、
実写だけで制作しているとのこと。
一体どうやって?ちょっと想像がつかない。
たとえCGを使っていたとしたって、こんなの見たことない。凄い。
1本の作品制作に1〜2年の時間を要するため
これまで発表された作品は、たった9本。

透明感のある、美しくも寂しい無人の映像世界。
未来的でありながら、懐かしい感じもする。虚構の時空、という感じ。
奇妙な浮遊感があり、自我が拡散してゆくような感触。
冷たい、けれど有機的で、有象無象を秘めている。
静かで淡々としたモノローグからは、呪術的な印象も受ける。

『キロワット・ダイナスティー』
 その是非を巡り国際的な議論を巻き起こしている、
 中国で現在進行中の大規模なダムの建設工事に関するニュースが元ネタ。 
 このダム建設により、住んでいた土地を追われる住民が何百万人もいるという。

『プラシーボ(偽薬)』
 自分が医者であり、WHOの研究員だとして、18年間、家族を騙し続け、
 嘘がばれそうになると家族を殺害してしまった実在の男の話をモデルにしている。

上記の2点が上映されていた。どちらも6分くらい。
どちらも実話を元にしているが、映像イメージに具体性は殆ど無い。

面白かった…。


オルドウォーバース展は、オオタファインアーツでも同時開催中。

2008-05-22 08:19 | 展覧会 | Comment(0) | Trackback(0)
「つぐない」
つぐない
原題: ATONEMENT
製作年度: 2007年
監督: ジョー・ライト
上映時間: 123分
出演: キーラ・ナイトレイ、ジェームズ・マカヴォイ他

テアトルタイムズスクエアにて鑑賞。

ブッカー賞作家イアン・マキューアンのベストセラー小説を、
『プライドと偏見』のジョー・ライト監督が映画化。
アカデミー賞(作曲賞)、ゴールデン・グローブ(作品賞)受賞。
物語は1935年の、戦火が忍び寄るイングランドから始まる。
幼く多感な妹の嘘によって引き裂かれた姉セシーリアとロビンの愛と、
嘘をついた罪の重さを背負って生きる妹ブライオニーの姿が描かれる。


いちど犯した罪を償うことの可能性・不可能性について、
償うという事そのものについて。
突き詰めて考えさせられる映画。
ぐいぐい泣かせに来るような演出は一切無いが、
登場人物たちに共振して、胸が強く締め付けられる。
ひとつの嘘が引き起こした事態の、なんと残酷なこと。
それでもその残酷な事態に立ち向かおうとする愛の強さ。
また、小説とは、創作とは、作家とは何か、ということまで
かなり真摯に語られており、ブライオニーのアイデンティティが
どこまでも深く逃げ場無く、贖罪と向かい合わせられている。
結局、ブライオニーの償いは「償い」たり得たのか、
そこは鑑賞者それぞれに委ねられている。
私個人としては、引き裂かれた恋人たちへのブライオニーからの「償い」
は、自己満足で、「償い」にも「親切」にもなり得ないものだと思う。
(確かブライオニーはkindnessという言葉を使っていた。)
この世には、取り返しのつかないことがある。

全編を通してダレず淀みなく、ぐいぐい惹き込まれる。
緻密に、ひとつひとつのシーンにきちんと目的があり、
物語と共に積み重ねられた仄めかしや示唆が
どんどん連鎖して、物語の更なる細部まで構築してゆく。
素晴らしい音楽に、ブライオニーのタイプライターのキイを打つ音が重なり
緊張感を高め、上映が終わってからも頭の中に響いているかのようだった。

映像もすごく美しい。
イギリスの上流階級のライフスタイルも豪華かつ渋く描かれていて
ビジュアル的にもワンシーン、ワンシーンが絵画のよう。
悲惨な戦闘地域でのシーンでさえ、時折夢のように美しいシーンが挟まれる。

キーラ・ナイトレイは大好きな女優さんだが、今回も本当に素敵だった。
『プライドと偏見』より更に女性っぽく、野性と気品が同居している。
優雅でクラシックな発音で紡がれる、早口の台詞が気持ち良い。
薄い胸で着こなすイブニング・ドレス、水着、ナース服…

また、各世代ごとのブライオニーがどれも一貫して
頑固そうで、白っぽくて、なんとも言えない、ムーミン谷の住人めいて
独特の雰囲気を繋げていて凄かった。

原作がそもそも傑作と名高い作品だが、映像化した意味は間違いなくあったと言えるだろう。


贖罪贖罪
(2003/04)
イアン マキューアン

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原作。ブッカー賞最終候補。全米批評家協会賞受賞。
2008-05-21 08:03 | 映画 | Comment(0) | Trackback(0)
「ファブリス・イベール 『たねを育てる』展」@ワタリウム美術館
「ファブリス・イベール 『たねを育てる』展」
ワタリウム美術館にて


この入館料だといくらなんでもボリューム不足なんではないか。
と腑に落ちない展示。
ご近所の緑化のデモンストレーションも、併せて見たとしても
ちょっと1000円は納得いかないような。
ワタリウムのチケットは一度買うと会期中は繰り返し使えるのだが
まさか畑が育つのを、蜂が蜂蜜を作るのを、ミミズが土を肥えさせるのを、
進行状況を何度も見に来い的な意図なのだろうか。それはめんどい。

館内の展示は、ドローイング、作物で作った等身大の人形、藁で作ったテディベア、
1フロアを草原にした展示(これはなかなかのインパクトではある)、
ミミズが潜っているらしい土、蜂、ハエ(生きている)。など。

アートは思考のたねから生まれ、森も大地の素から創りだされる。
というコンセプトらしいのだが、
「農」としての種、それを育てることと
アートが思考を経てかたちになることが、
うまく絡ませたり対比させたり、何らかの方法で提示できていない。


本展の関連イベント、「21世紀は「農」の時代」と題した
東京農大の進士五十八(東京農業大学)先生の講演は、講演として面白かった。
(5月17日(土)19時〜)
いまなぜ「農」か。都市の農村化。人間と自然のつきあい方とは。
総合、万能技術としての「農」の捉え直し。
生まれながらに持っている能力をすべて発揮して生きる生き方、
それが「農」である、といった内容。

「思想という種を蒔き、行動を刈り取りなさい。
 行動という種を蒔き、習慣を刈り取りなさい。
 習慣という種を蒔き、人格を刈り取りなさい。
 人格という種を蒔き、運命を刈り取りなさい。」

出展を先生もお忘れだったけれど、まあ
種を一つ蒔くと、何倍もの収穫がありますということ、
それが人間の営み全体に常にあれば、人間は豊かであることができる
という、姿勢ですね。


ファブリス・イベール(Fabrice Hyber 1961年〜)
フランスで生まれる。1997年 第47回ベニス・ビエンナーレで、最年少で金獅子賞を受賞。
2008-05-20 08:32 | 展覧会 | Comment(0) | Trackback(0)
「ファクトリー・ガール」
ファクトリー・ガール
原題: FACTORY GIRL
製作年度: 2006年
監督: ジョージ・ヒッケンルーパー
上映時間: 91分
出演: シエナ・ミラー、ガイ・ピアース、ヘイデン・クリステンセンほか

シネマライズにて鑑賞。


ポップ・アートの旗手アンディ・ウォーホルのミューズとして知られ、
今もファッションやカルチャーに影響を与えるイーディ・セジウィックの波乱の短い人生を描く伝記映画。
1960年代のポップ・アイコンとなり、時代の光と影を体現した彼女をシエナ・ミラーが熱演。
ウォーホルにガイ・ピアース、イーディの心を動かしたボブ・ディランにヘイデン・クリステンセン。


予告編を見た感じから、愉しげな60’Sアメリカンポップカルチャーを見せてくれる
目に美味しいタイプの映画かと思ってた。
確かにファクトリーのカルチャーや衣装、メイクなどビジュアル的に興味深いが、
映画としての後味は、なんだかどよんと悲しい、重めのブローが効いた作品だった。

予告にあったように「時代を駆け抜けた」という清々しさは無い。
なぜならヒロインのイーディは自分が好きなことを思い切りしたわけではないから。
そこに彼女の意思はない。ただ流されただけ。
28年という短い人生を、目的に向かって駆け抜けたなら、救いも意味もあるけれど、
イーディは取り敢えず実家から逃れたくて、NYに出てきて、
何だか分からないけど有名になってしまった、そして消費され、死んでしまった。
バカで可哀想な女の子の話。
ラストの関係者の証言
「ウォーホルは、女の子なら誰にでも『僕の映画に出ないか』と言っていたよ。
 イーディだけが真に受けてしまった。」
やるせない。

岡崎京子のエッセイ『ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね』にあった
「いつも一人の女の子のことを描いている。一人の、女の子の、堕ち方を。」
という言葉を思い出した。
たしかこのフレーズは岡崎京子の『ヘルタースケルター』の単行本の帯にも使用されていた。
でも『へルタースケルター』のりりこは、自分の意思で駆け抜けていたわけで。
運命を切り開こうという意思に満ちていたわけで。
だからずしんと重くのしかかる物語ではあったけれど、そこには何かしらの昇華があった。
りりこの狂気には甘えが無く、ストイックで、清冽だった。
「ファクトリー・ガール」にはそれが無い。
イーディの狂気は、酷く子供っぽくて、甘ったれている。

虚しさを突きつけられる。
だから作品として悪いってわけじゃないのだけれど。
映画としては、ある「一人の女の子の堕ち方」をしっかり描いている。

ヘルタースケルターヘルタースケルター
(2003/04/08)
岡崎 京子

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ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうねぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね
(2004/02/21)
岡崎 京子

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2008-05-19 08:27 | 映画 | Comment(0) | Trackback(0)
原清さんのお重
原清さんという作家さんの手になる小さなお重。
1つの木から刳り貫いて作っている。
漆塗りだけど、木工という要素が濃い。

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梅型。丸くて、なんとも可愛い。
木の塊からくり貫きで作られている。
凄い職人技。
全ての段がぴたりと吸い付くみたいに合う。

四角い大きなお重にいっぱいご馳走を詰めるようなライフスタイルでもないし、気力も無い身には、これくらいが丁度。
普段は買い置きのお菓子やドライフルーツを入れている。
漆なので、焼き菓子やお饅頭も渇かなくて良い感じ。
持ち寄りのホームパーティーなどには、お菓子をこのお重を持って買いに行って、詰めて貰ってそのまま持って行ける。
練り切りなんか本当に映える。
蓋を開けると、わぁ!という感じ。

t

人形町にある茶一という喫茶店兼ギャラリーで購入。
買った時は、マダムがこんな可愛く包んでくれた。

同姓同名で2005年に鉄釉陶器で人間国宝に認定された陶芸家の方がいるけれど、そちらとは別人。
2008-05-16 08:02 | 未分類 | Comment(0) | Trackback(0)
赤木明登『ふだん使いの漆の器』展@スペースたかもり
赤木明登『ふだん使いの漆の器』展
茗荷谷のスペースたかもり にて 5月17日(土)まで

赤木明登さんの漆の中でも、初期のものを中心にランナップされている。
手漉き和紙貼りの、厚手で重みがあり、マットでざらっとした質感の作品たち。
普段用にどんどん使える気楽さ、安心感がある。
雨の週末にお伺いしたが、小さなスペースは
ゆっくりと、真剣に器を手に取ってみる人たちでいっぱいだった。
赤木さんもいらっしゃった。
山の暮らしが背後にある、そんな空気を纏った素敵な方でした。

akagi.jpg

欲しかったパン皿を。
赤いのと、迷ったけれど結局黒いのを。
素朴でシンプル、ただ形が美しい。洋食器と一緒に使っても違和感が無い。
フラットな盆も欲しかったけれど、今回は縁の高いものしか無かったので、またの機会に。
2008-05-15 08:48 | 展覧会 | Comment(0) | Trackback(0)
穂村 弘のエッセイ
すごく忙しくて、すごく疲れていて、
どこかへ出掛けるような時間と体力は無いけれど
このままただ仕事ばかりして疲れているのは嫌だ、
どこか、ここではないどこかへ行きたい時がある。
そういう時は夢中になって読めるような本が良い。
でも本当に夢中になって読み耽ってしまうようなミステリーとか
移動中やベッドの中で読むには重たい大著は困る。
なにより内容は柔らかくて心にするするすーと入って来てくれるようなのが良い。
そうなると私の場合は大抵エッセイだ。

先月の仕事の修羅場のお供は、ほむほむ。

思春期の乙女の現実と妄想の境が危うい時期、
そして自意識過剰でどうしようもない時期、
そういうちまちました時を40歳にしてまだキープしている穂村弘氏。
歌人でありながら、総務課長の肩書きを持つサラリーマン。
独身のまま過保護な両親と同居し、自室の窓ひとつ自分で開けた事は無く
女の子とラブホテルで大島弓子の「たそがれは逢魔の時間」のネームを暗唱し合う。
この世のものとは思えない。妖精みたいだなあ。
(今は実家を出て、結婚したようですが。会社はまだ勤めてるんだろうか…)

エッセイも面白いですが、本業の短歌はまた素敵です。

耳で飛ぶ象がほんとにいるのなら おそろしいよね そいつのうんこ
サバンナの象のうんこよ聞いてくれ だるいせつないこわいさみしい


世界音痴世界音痴
(2002/03)
穂村 弘

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もしもし、運命の人ですか。 (ダ・ヴィンチブックス)もしもし、運命の人ですか。 (ダ・ヴィンチブックス)
(2007/03)
穂村 弘

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もうおうちへかえりましょうもうおうちへかえりましょう
(2004/05)
穂村 弘

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現実入門現実入門
(2005/03/23)
穂村 弘

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2008-05-14 17:52 | | Comment(0) | Trackback(0)
「光州5・18」
光州5・18」 
原題:MAY 18
製作年度: 2007年
監督: キム・ジフン
上映時間: 121分
出演:アン・ソンギ、キム・サンギョン、イ・ヨウォン

新宿ガーデンシネマにて鑑賞。


1980年5月18日に韓国・光州で起きた“光州事件”を
家族思いの青年の姿を通して描くヒューマンドラマ。
市民への大弾圧が行なわれた“光州の悲劇”を商業映画として初めて正面から取り上げ、
市井の人々の目線で、惨劇の中に起こった人間模様を映し出す。

恥ずかしいが光州事件については良く知らなかった。
この事件が、軍が市民を文字通り無差別に惨殺するという、
こんなにも非人道的なものであったことに衝撃を受ける。
これは私が生まれるほんの少し前に、隣国で起った史実である。
酷い暴力と理不尽に抵抗する正義感、愛国心、
そして家族や隣人を守りたいという人々の姿勢に涙が止まらない。

ただ、涙が止まらないのは、上手に作られたメロドラマ的なくだり
(ラストはそういえば「アルマゲドン」に似ているな)
に拠るところも大きい。
エンタテインメントとしての映画には、重要なことだろう。
高校の先生と生徒のエピソードなんかはとても良い。
それからイ・ヨウォンの血だらけの看護婦さん役も美しくて悲しかった。
だが実際、バランスとして、主人公のその辺の個人的な物語
(それは光州全体を象徴もするのだけれど)に比重をかけ過ぎのようにも思われる。
その辺をもう少しタイトに纏めて、アメリカの対アジア政策(共産主義への反発、恐れ)
が韓国の軍の暴走の元凶であった点について触れた方が、
歴史映画としては有意義なのではないか。
韓国の人には常識だから、特に盛り込む必要が無かったのかも知れないが…。

まあ、この映画をきっかけに、良く知らなかったけど光州事件について少し考えた、
調べてみた、こう思った、みたいな流れが出来た時点で有意義には違いないだろう。

2008-05-13 08:50 | 映画 | Comment(0) | Trackback(0)
「生誕100年 東山魁夷展」@東京国立近代美術館
生誕100年 東山魁夷展
東京国立近代美術館にて
5月18日(日)まで

東山魁夷(1908〜1999)の過去最大の回顧展。

今まで、いまいち良さが分からなかった巨匠。東山魁夷。
まとまった大作をたくさん見たら分かるのかなと思ったけれど
やっぱりいまいち分からなかった。
あまり楽しくない鑑賞だった。
見よがしにせず、なんでもない風景を魅せる技量はなかなか凄いと思う。
誠実な観察と考え抜かれた構成で、丁寧に描かれている。
自然への畏怖、敬意も溢れている。巧い。

でも白馬シリーズなんかは俗っぽくて嫌だなあ。

私はこのひとの色が嫌いなのだなーと思った。
墨画は素敵。本画も、スケッチも。

それから日本画の額ってどうしてあんなにダサいのだろう。
もっと格好良くできないのか。みんな、あれがやっぱり良いのか。
アクリルは普通に反射していた。
せっかくの凄い来場者数なんだから、低反射のアクリルを使ってしっかり見せたらいいのに。
2008-05-12 08:43 | 展覧会 | Comment(0) | Trackback(0)
山崎ナオコーラ『浮世でランチ』
浮世でランチ浮世でランチ
(2006/09/12)
山崎 ナオコーラ

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何だかするするすーと滑って行くような一冊。
文章はやっぱり安定してセンスがあって巧いし
独特の瑞々しさは他にない魅力だけれど、
読み手を掴んで引寄せる力に欠けるような。
筆者としては、意図的に引いているところもあるんだろうけど。
『人のセックスを笑うな』にはそういう引寄せる力があったんではないかな。
恋愛ものだし。
「自分探し」という題材は、作品として読ませるのが難しいのだなあ。
2008-05-09 08:37 | | Comment(0) | Trackback(0)
柏水堂のプードル
p
柏水堂のプードル。

なんとも安心する懐かしい味。
バタークリーム自体の味はエスワイルには負けるけれど、
酸っぱいジャム(カシス?)を挟んだ土台との取り合わせはなかなか。
何よりこのレトロなビジュアル。
なんて可愛いのでしょう。
子供の頃から大好きだったけど、大人になってもまだ大好きな自分に驚いてしまう。
両親はいつもサヴァランを食べていたから、
その内自分もプードルを卒業する日が来るのかと思いきや、未だにプードルひとすじ。
時間があれば、レトロ可愛いアールデコ調の店内で、
ランプやステンドグラスなど眺めつついただくのも好き。
1階が売り場と喫茶コーナーで、商品は全て2・3階で作られている。
神保町の書店巡りの後に立ち寄ることが多かったけど、最近はめっきりアマゾンなので、ちょっと頻度が落ちている。

m
マロングラッセや焼き菓子も、素朴ながら後引く美味しさ。

2008-05-08 08:53 | おいしいもの | Comment(0) | Trackback(0)
モディリアーニ展@国立新美術館
モディリアーニ展 
国立新美術館にて 
6月9日(月)まで

アメデオ・モディリアーニ(1884-1920)。
20世紀初頭にパリのモンパルナスで活躍した、エコール・ド・パリを代表する画家。
夭折の人生、彼の子を身篭った妻が後追い自殺というドラマティックな人生は、映画化もされている。
モディリアーニは、無頼で奔放、酒と麻薬漬けのボヘミアン画家というイメージで語られてきたが、
近年では、その短い画業を通じて、原初的な力にあふれるアフリカやオセアニア、東南アジアなどの
プリミティヴ美術を理知的に分析しながら、西洋美術の造形理念との結合を試み、
革新的な芸術創造に結びつけた最初の画家だったということが明らかになってきている。
本展には、日本では初公開の作品も多く含まれ、全油彩作品がわずか400点に過ぎないと言われる
モディリアーニの展覧会としては、かなりの作品数を揃えた回顧展と言える。
プリミティヴ美術の影響を色濃く示す初期のカリアティッド
(古代ギリシャの神殿建築で梁を支えている女性を象った柱のこと)
の作品群から独自の様式を確立した肖像画までを一望できる展覧会だった。

なかなかのボリューム。
カリアティッドの作品は、彫刻家としての鍛錬をしていた頃のモディリアーニの
立体的で造形的な眼差しが反映されている。
力強い理想美を思い描き、独自の新たなフォルムを造りだそうという意欲が見える。
気持ちのよい作品群である。

そしてお馴染みの首の長いアーモンド型の目の肖像画。
実物をこんなに沢山見るのは初めて。
やはり上手いんだなあ、と思う。すごくセンスがいい。
画面構成、配色、塗り残し、全て厳しく制御されているが、
単に厳しいだけではなく、優雅。
目玉が入っていない肖像画が多いけれど、人形みたいな感じは一切無くて、
どれもそこに生きていた人だという感じ。
妙にリアルな表情は、
「このひと、疲れた小池百合子みたい。」とか「中島みゆきに似てるー。」など
変な連想すら喚起する。

この、首の長い特殊な様式の肖像画、モディリアーニがもっと長生きしていたなら
きっと新しいかたちへと変化していったのだろう。
美しき過渡期であったはずのこの様式が、最終様式になってしまった、人生の短さ。
人が一生の間に出来る仕事とは…
そんなこともぼんやりと思う。
2008-05-07 08:42 | 展覧会 | Comment(0) | Trackback(0)
DVD「きみにしか聞こえない」
きみにしか聞こえないきみにしか聞こえない
(2007/12/07)
成海璃子.小出恵介

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きみにしか聞こえない

監督:荻島達也
原作:乙一
出演:成海璃子、小出恵介、ほか
製作年度: 2007年
製作国: 日本
上映時間: 107分

内気で友だちのいない高校生のリョウ(成海璃子)は、ある日、公園でおもちゃの携帯電話を拾う。数日後、着信音が聞こえ、若い男性の声が聞こえてくる。なぜか、二人は電話がなくてもテレパシーで通話できるようになり、長野に住むシンヤ(小出恵介)と、横浜で暮らすリョウの不思議な交流が始まる。

成海璃子がすごく可愛いくて、映像も綺麗で、なんか、つるつるの映画。
PVみたいだなあ。音楽の入り方も泣かせに来ていて、いやらしい。
設定や構成のツメが甘い。
なんで時間が10分だけズレているのか、最後までいまいち納得がいかないまま。
また、この程度の孤独感を抱えている人間は腐るほど居るのに、どうしてこの2人が繋がったのか。
なぜ「きみにしか聞こえない」のか。この2人のシンクロニシティの必然が判然としない。
頭の中の携帯電話、というのも、設定としては面白いが、
その意味をもう少し突き詰めて描かないと勿体無いのではないか。
孤独を感じている状況から一転、「誰かと繋がっている」状況になった主人公。
でもそれではまだ何の問題解決にもなっていないわけで、
そこから「話だけではなく会いたい」→「会ってみたらなんか違った」とかなんとか
色々あって然るべきではないのか。
最初から美男美女で、孤独だったけど電話が繋がって話が弾んで、一瞬会って死んじゃって、
というのは所謂オタクの妄想というか、どうにも不健全で気持ちが悪いと思う。
2008-05-06 08:15 | 映画 | Comment(0) | Trackback(0)
小山登美夫『現代アートビジネス』
現代アートビジネス (アスキー新書 61)現代アートビジネス (アスキー新書 61)
(2008/04)
小山 登美夫

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ギャラリスト小山登美夫氏による現代アートという業界についての解説本。
価格はどう決まるのか、日本の現代アートの状況は世界基準に照らしてどんなものか、
ギャラリストの仕事って何なのか、アートに投資する意味は何か、
といった疑問に対して、さらりさらりと回答。見事です。
小山氏はギャラリストであるけれど、ちゃんと鑑賞者やコレクターの視点も持っている。
本当に現代アートが好きで、芯から向き合って仕事をしている小山氏だからこそ、
こう明るく前向きな解説が出来るのだと思う。

小山氏の論調は、非常にクリア。自分の無意味なこだわりに気づかされることもある。例えば、

「よい作品なのに売れない」というアート関係者は多いですが、「よい/悪い」「好き/嫌い」と、
「売れる/売れない」はまったく別の話なのです。
つまり、どんな作品でも、交換が成り立てばマーケットができ、お金の流れが生まれる。


わが身を振り返り、ドキッとさせられます。

日本では展覧会の告知はあっても、批評が発信されないというメディアの問題も指摘。
公平な批評が育たないと、マーケットの循環と価値の蓄積が成り立たないですからね。

アートは国の資源です。採掘しすぎて枯渇が危ぶまれることもなければ、
乱開発で環境を破壊することもない、きわめて有望な資源なのです。
…観光資源として利益をもたらしますし、教育普及や国のアイデンティティの構築にも欠かせない資源です。
欧米諸国は国を挙げてこの資源を擁護育成し、そして有効に利用しています。


なんでも欧米追従は良くないけれど、ことアートに関しては、本当に日本はお粗末だと思う。
「お粗末だ」で終わらず、きちんと仕事で働きかけつづけているのが、
小山氏が現代日本を代表するギャラリストである所以でもあるわけだと再認識した1冊。
2008-05-05 08:41 | | Comment(0) | Trackback(1)
「知られざる鬼才 マリオ・ジャコメッリ展」@東京都写真美術館
「知られざる鬼才 マリオ・ジャコメッリ展」
東京都写真美術館にて 
5月6日(火・祝)まで


殺人的に忙しかった4月。
外国の画家さんが来日して展覧会をやっていたので
展覧会の運営、作品の梱包や発送、在庫管理にパーティー、各会場への搬入と搬出、画家さんのアテンドなどなど。
1日も休みは無く、残業の日々。
そんなわけで、アートフェア東京も、101TOKYO Contemporary Art Fairも、
丸の内アートウィークスも、アート・アワード・トーキョー2008も、一切見に行けず。
今週、ようやく時間が出来たので、ネイルサロンか展覧会か秤にかけた結果、
とりあえず開催期間ギリギリの「マリオ・ジャコメッリ展」へ駆け込むことにする。

マリオ・ジャコメッリ (1925-2000) 。戦後の写真界を代表するイタリアの写真家。
中部イタリアのアドリア海に面した古い小さな町、セネガリア生まれ。
父を早くに亡くし、13歳で印刷屋で見習いを始める。
1953年のクリスマス・イブに初めて自分のカメラを買い、
土曜日の午後と日曜日にだけ写真を撮るようになった。遅いスタートである。
そして世界的に著名な写真家となった後も、終生、故郷のセネガリアにとどまり、
印刷屋という職業を変えることはなかった。
立場としては、生涯「アマチュア写真家」であった。

ジャコメッリのまとまった展覧会が日本で開催されるのは、これが初めてである。
彼の代表シリーズである「ホスピス」「スカンノ」「若き司祭たち」「大地」などを始めとして
カメラを持ち始めた初期の作品群から、最晩年のシリーズまでカバー。

行っておいて良かった。
強烈なハイコントラスト。溢れる詩情。モノクロームが生み出す底のない深み。
これを「写真」と呼んでいいものか、戸惑うほどに絵画的な画面である。

ルルドの巡礼者たちの人の波。自力では歩くことが出来ない人たちが、
横たわったままルルドの石畳を埋めている。
映画「潜水服は蝶の夢を見る」でも、ルルドのシーンがあったなあ。
治りたい、という思いが人の波という質量を持って迫る。生への執着。

一方で、ホスピス。
日本でイメージする「ホスピス」―安らかに最期を迎えるための最終医療
というニュアンスとは掛け離れた「養老院」。
「朝、目が覚めると、また目が覚めてしまったと思う。」という老女の言葉。
ここにいる老人達は夜眠りに就く時に、このまま二度と目覚めないことを願っている。
「老い」の残酷さをジャコメッリはカメラに収めていく。
深い深い皺、枯れ木のような肉体、昏々と眠る老いた人、所在無げに椅子に腰掛けた人の内面に思いを馳せる。

また、若い司祭たちをカメラに収めたシリーズ「私には私の顔を愛撫する手がない」。
神学生たちは、黒い僧衣の裾を翻し、雪の中で、草原で、校舎の陰で、溢れんばかりの若さを振りまいている。
彼らは神学校を卒業して司祭となる。
親に子を育てることを説き、悩める者の顔を愛撫する立場になるのである。
しかし彼らは自らの子を持つことはない―。
無邪気な彼らが宗教者となり、やがて求められることになるのは、孤独であること。
写真の中の若い無邪気さに胸がときめくと同時に、締め付けられるようである。

現実の人の営み、そこにある意味、ふと視線をずらした時にちらちらと覗く夢との境界線、生と死の際。
現実では無いような光景が、逆に現実をありありと縁取って提示してくる。

mj.jpg
2008-05-03 08:17 | 展覧会 | Comment(0) | Trackback(0)
森達也『世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい』
世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい
(2003/04)
森 達也

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人は悪意や自分の利益のために大量の人を殺せない。
むしろ善意や大義を燃料とする時にこそ、愛する者を守ろうとする時にこそ、
他者への想像力を失い、とても残虐になる。

オウム事件を扱ったドキュメンタリー映画の監督をした森達也氏による、
「視点を少しずらすことで見えてくる、現代日本社会」を考察した小文集。
誠実に愚直に、人の優しさを見つめ、その優しさが無自覚に暴走する危険性を説いている。


全体を通して印象に残り、自省させられたのは、非当事者であることの意味。
森氏は、拉致被害者とその家族による加害者(北朝鮮)への憎悪に、便乗する非当事者を冷静に見つめる。
国家による「洗脳」という言葉の安易さ、経済制裁の手段を取る理由の論理的説得性の無さ…
拉致被害者の立場に立って声高に制裁を叫ぶことだけが、非当事者の役割だろうか?

たとえば、死刑制度に疑問を投げかけると、必ず問い返されるのは
「あなたの家族が惨殺されても、そう言えるのか」という問いだ。
それを言われると辛かった。でも何だろう、その問いには何らかのアンフェアさがあるという違和感があった。
本書を読み、それが少し晴れた。今の私は非当事者なのだ。


「非当事者には非当事者の役割がある。だから憎悪の便乗はやめようと提案する。
…「許さない」と拳を振り上げるとき、人は主語を「私」や「僕」などの一人称単数から、
「われわれ」や「国家」などの複数代名詞に置き換えている。
つまり大きくて強いもの。だからカタルシスがある。だから善意に陶酔できる。
自分だけに帰属しない述語は当然のように勇ましくなる。
そして結局は暴走する。人の歴史はそんなことの繰り返しだ。

(「変わらぬ憎悪の便乗の図式」より)


「私個人」は確かに社会的存在であるが、同時に主体でもあるという当然のことを、
どれほどの人が、本当の意味で自覚しているだろうか。
2008-05-02 08:33 | | Comment(0) | Trackback(0)
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